監督 ジョージ・ミラー 主演 トム・ハーディ
2015年 オーストラリア/アメリカ映画 120分 アクション 採点★★★★★
“マッドマックス”シリーズの第4弾として2003年頃からプロジェクトがスタートするも、ロケ地ナミビアの情勢不安定による治安の悪化や、当然の如く主演を予定されていたメル・ギブソンの『パッション』製作やその後の
情緒不安による人気の悪化などから、プロジェクトは静かにフェードアウト。それがまさかの再始動を始めたってニュースが流れたのが数年前。ただまぁ、正直なところその時点では全く期待してなかったんですよねぇ。前作の『マッドマックス/サンダードーム』があんまりにもアレでしたし、確かに『ベイブ/都会へ行く』はファミリー映画らしからぬ狂った傑作でしたけど、ファミリー映画に大きくシフトしたジョージ・ミラーがあの狂いに狂った世界を異常なテンションでフィルムに焼き付けることが出来るのかって疑問もありましたし。そもそも、滅菌されたエンタメ作品ばかりとなった21世紀のメインストリームで、
それが許されるのかって不安も大きく。
【ストーリー】
核戦争により文明が破壊され、尽きかけている資源を巡り幾多もの武装集団が争いを続ける世界。家族を守れなかった罪悪感に苛まれる元警官マックスは、独裁者イモータン・ジョーを神の如く崇めるカルト武装集団に捕まり、彼らの輸血袋として利用される。そんな中、ジョーの右腕であり戦闘員“ウォーボーイズ”のリーダー格である女戦士フュリオサが彼の妻5人を連れ逃亡。ジョーは総動員での追跡を開始する。この苛烈な追跡劇に巻き込まれてしまったマックスは…。
そんな不安や心配など全く無意味だった本作。
と言うか、ヤバイ。面白すぎる。鑑賞後サブタレ用にレビューを書こうとPCの前に座るも、興奮し過ぎて何から書いたらいいかサッパリ浮かばず、何時間も足掻いている内に全てのシーンを全部文字に起こしちゃうか「スゲー!スゲー!」と書いて終わりにしちゃうかってとこまで追い込まれ、それじゃあんまりなんで一晩置いて冷静になろうと寝て起きるも、
やっぱり興奮冷めやらず。なので、大まかな構成も着地点も全く決めていない、いつも以上に支離滅裂なレビューになってしまうことを予め宣言。
勘弁してくだされ。
客観的に作品を評価する際の基準となる完成度や所謂芸術性なんてものを度外視すると、映画館での映画体験でこれだけの興奮を味わえたのは、大げさな話ではなく子供の頃観た『地獄の黙示録』のヘリ襲撃のシーン以来なのでは。てか、追う/追われるの立場は逆だけど、ジョージ・ミラーがコンラッドの『闇の奥』を映画化したらこうなるんじゃないのか。
理屈や屁理屈、常識や非常識がゴチャゴチャと混じり合った、普段の日常とはまるで別の世界に突然強制的に放り込まれる感覚を存分に味わえる本作。目を覚ましたら、そこはさっきまで寝ていたはずのベッドの上ではなく、何処かもわからぬ砂漠のど真ん中に居る上に白塗りの武装集団に囲まれてる。もしそうなったらスゲェ驚くだろうし混乱もするんでしょうけど、それに近い感覚を久々に味わえたのがこの映画。
観ているこっちの何かを狂わせてしまう、そんな力に満ち溢れていた作品。
普段見ることなど絶対に出来ない
“なんかスゲェもの”を見せるのが映画の原点であるってのを思い出させられたのと同時に、それによって自分自身の映画原体験にある興奮をも思い出させられたかのような一本で。
『マッドマックス2』のリブートとかリ・イマジネーションのような趣がある本作。あの作品は数多くのフォロワーを生み出しただけではなく、崩壊した世界のイメージを決定付けたって意味でもいまだに影響力が強い作品でも。そんな世界を生みの親であるジョージ・ミラーが再び描き出すってのにワクワクさせられる一方で、完成された雛形にスッポリと収まってしまっているのではって危惧を感じたのも事実。ライブアクションの現場から長らく離れているってのもそう思わせた要因のひとつであるし、そもそも21世紀にあれがまた作れるのかって疑問も。つうか、70歳にもなれば
いい加減枯れてるだろうって思いも。
ところが、蓋を開けてみればそこに描かれているのは狂いに狂った狂乱の世界。
スクリーンの中心に据えれば物理的な大きさ以上の存在感の大きさと共に、“主役”としての風格を漂わせた巨大トラック“ウォー・マシン”を筆頭に、全体に金属のトゲを生やしたりショベルカーをそのまんま乗っけたりするデザインの大いに狂った車の数々だけではなく、中世の軍楽隊の如き大太鼓軍団を背にダブルネックのギター(
しかもネックの先から炎を噴上げる!!)をかき鳴らし続ける盲目のギター魔人や、放射能の影響か、身体のどこかが肥大してるか退化している人間デザインまでもが狂ってる。どこか『デューン/砂の惑星』の男爵家の面々を思い起こさせる人間デザインの中でも、吹き出物に覆われ爛れ切った皮膚を隆々の筋肉を模した鎧で包み、威圧感と恐怖心を与えるにも程がある呼吸器で顔を覆う、『マッドマックス』のトーカッターことヒュー・キース=バーンが扮したイモータン・ジョーのデザインなんて、醜く奇怪で恐ろしいのに、
一瞬「美しい」と思えてしまうほど秀逸。
また、汚染されていない赤子を作り出すために集められた花嫁たちが閉じ込められてる“赤子工場”や、ひたすら母乳を搾乳され続けるだけの“母乳牧場”など、その世界の異常さを一発で観客に飲み込ませるイカした施設の数々にも圧倒される。
もちろんビジュアル面の上っ面だけでは終わっていないのも、本作を特別なものへとのし上げた要因。見た目インパクトだけでも十分なウォーボーイズの連中は、単なる凶暴な暴走集団としてのみ描かれているのではない。彼らの願いは戦いの中で栄光の死を遂げ、その活躍を神の如き存在イモータン・ジョーに認められることによって過去の英雄たちの仲間入りをすることだ。それだけなら単なるカルトで終わってしまうし、イモータン・ジョーの存在自体も安っぽいものへと成り下がってしまうのだが、本作はそこに“
汚染された土地に生まれたが故に短命”という決定的な要素を付け加えることで、彼らの行動が単なる悪ふざけではなく必然であることを印象付けている。それによって、ジョーもただの狂人や独裁者なんかではなく“部族の酋長”としての貫禄と大きな存在感が生まれているし、ウォーボーイズが
死ぬために戦うという相手にするには一番面倒くさい存在として恐怖感を生み出している。
また、それだけでもやはり同じ顔した無個性の恐ろしい集団ってなってしまいそうなところを、『
X-MEN:フューチャー&パスト』のニコラス・ホルト扮するニュークスを書き加え、彼にちょいとネジのずれたロマンスを含め多くのドラマを持たせることで“ウォーボーイズ”という部族がさまざまな個性の集合体であることを印象付けるのに成功している。
これらのビジュアルと世界観を、衰えの全く伺えないあの独特な荒々しいカメラワークと演出で描ききったジョージ・ミラー。なんかもう、『マッドマックス2』直後に
昏睡状態に陥り、つい最近目覚めたかのようなエネルギッシュっぷりとカオスっぷりに大いに驚かされた次第で。
狂気に満ち満ちた世界観とネジのぶっ飛んだビジュアルの話ばかりをダラダラと書き連ねてしまいましたが、マッドマックスの醍醐味といえばやはり度肝を抜かれるカーアクション。ただ、こればかりは「度肝を抜かれますよ、はい」としか書きようがない。それか
「ブォーンブォーン!ガガーン!ドドガーン!」と延々と書き続けるか。
個人的には、ジョージ・ミラーって職人に徹することも出来るけど、本質的には自分の思い描いたイメージを実現するためには、密林をナパームで焼き払うこともジャングルの奥地に巨大な蒸気船を運ぶことも辞さない、狂気に取り付かれた作家のマイルド版だと思ってるんですよねぇ。今回はその狂ってる部分が存分に前に出た印象が。
今の時代、CGIを使えば自分のイメージをそのまま画にすることも可能だし、そもそもロケに行く必要すらない。ところがミラーは、一貫してナミビアにこだわり続けたし、ライブアクションにこだわり続けた。もちろん本作にもCGIは活用されている。砦の景観や地獄のような砂嵐なんてのは、まさにそれ。ただ、アクションに関して言えば、CGIは何かを付け加えたり消したりする補助的な使い方こそされているが、そのほとんどはライブアクションだ。
生意気にも常々CGIを多用しすぎる風潮に苦言を呈してきた私。でも正直なところ「なんかイヤ」って以外明確な理由が思い浮かばなかったんですけど、本作を観て
ちょっとだけ分かった気がする。カメラが収めた素材を加工し、技術的にも物理的にも不可能なことを可能にするCGIによる映像は、迫力に関して言えば場合によってはライブアクション以上なのは確か。如何様にもアレンジできるし、何度でも寸分違わず再現も出来る。ただ、この“
再現が出来る”ってのに何と言うか…“熱”が感じられない。一方、ライブアクションでは車がクラッシュした時に立ち上る砂埃や飛び散るパーツ、同様に舞い上がるスタントマンの身体の動きなどは、撮るテイク毎に違う。100%同じものは二度と出ない。『マッドマックス2』を観た人は思い出してもらいたいんですが、あの数々のクラッシュシーンをもう一度同じに再現しろと言われたら、
あともう何人スタントマンが死ぬか分からないし、死んだところで再現は出来ない。その二度とない瞬間をフィルムに焼き付けた映像にこそ“熱”を感じる。そういう意味では、その場所のその瞬間でしか撮れない一瞬を収めた本作は本当に“熱い”一本だったなぁと。
ちょっと他のレビューやコメントを全く見ていないので断言はしかねるんですが、過去作が神格化されているだけにアレコレ比較して腐す、所謂“原作原理主義”の方々も居られるのかと。そして、その話題の中心となるのは、『
ダークナイト ライジング』のトム・ハーディ扮する新マックスなのでは。
確かに今回のマックスは、別に物語を背負っているわけでも牽引するわけでもない。家族を失ったというトラウマを背負っている設定だが、その事実を知ってるのは
本人と観客のみで、映画内の住人は誰も知らない。と言うか、名前も何も知らない。タイトルにまでなってる主人公のはずなのだが、“ない”と言えば極端すぎるが、その場に居る必然性は極めて薄い。
一方、『
荒野はつらいよ 〜アリゾナより愛をこめて〜』のシャーリーズ・セロン扮するフュリオサは常に物語の中心に居て、全てを背負い全てを牽引する。“女版マックス”というか、『マッドフュリオサ』ってタイトルでもおかしくないほど役割が主役。
最後に片目になるのもこっちですし。
ただ、振り返ってみれば『マッドマックス2』のマックスも似たようなもので、基本的に生き残るための自分本位の行動しか取らないマックスが大事に巻き込まれ、僅かに残っていた正義感を燃やした結果、そこの住人たちの世界が大きく変わる。その住人たちにとっては何者なのかさっぱり分からない、過去から現れた亡霊のような人物の行動が偉業として語り継がれ伝説となるが、当の本人にとっては
必死に日々生き残る中での1エピソードに過ぎない。そんなヒーローでもなければアウトローでもない、サバイバー兼風来坊なマックス像ってのがしっかり受け継がれていたのは嬉しいなぁと。
まぁ、フュリオサが強烈過ぎて若干マックスが押され気味だったってのも確かにありますが、その辺はアナウンスはされてる次回作“Mad Max: The Wasteland”で挽回してくれるんじゃないかと期待。予定キャストにシャーリーズ・セロンがいる分、
より一層『マッドフュリオサ』になる可能性もありますけど、それはそれで楽しみですし。
で、こんだけダラダラと長いレビューを書いておきながら最後に愚痴ってのもアレなんですが、気になってしまったのは仕方がないので可能な限り手短に。
今回鑑賞したのは2Dの字幕版。基本的に吹替版は観ませんし、観ていないものなので断言はしかねるんですけど、相変わらず作品の世界観もキャラクターの性質もなにもかにもを考えない、
実力度外視&作品愛ゼロのキャスティングがなされてしまっているようで。マックスのセリフが非常に少ないってのが救いなのかも知れませんが、子供らが以前見ていたTVドラマでの様子を見る限りは、
喋る度に場が学芸会へと変貌しちゃうのが容易に予想が出来る気も。マックスが鼻声で「やっべーなぁ」とか言ってる様を想像すると、正直鳥肌立ちますし。
ただまぁ、力ある事務所のそれなりに名前の知られたタレントを声優として使うってのは、ビジネスとしては理解できなくもない。ワイドショーなんかが扱ってくれれば、高いCM枠に大金を払うよりも多くの宣伝効果を得れるでしょうし、タレント側もスターの仲間入りしたような気分を味わえてWin-Winの関係になるんでしょうし。そのWin-Winの関係には
作品も観客も入っていないってのや、字幕にしろ吹替にしろ、映画の面白さをきちんと観客に伝えるって本来の職務からはかけ離れているって問題もありますが、まだ辛うじて観客には字幕/吹替の選択肢が残されている分マシなのかと。
それよりも、
なんなんだあのエンディング曲は?以前の記事でも書かせてもらったんですけど、あくまで予告編のみのイメージ曲かと思いきや、本来のエンディング曲を強制的にフェードアウトさせてぶち込んできやがる。
“怒りのデス・ロード”の“怒り”ってのはこのことなのかい?ファンも少なからずいるんでしょうから曲そのものにはもう触れませんが、いつまでこんなことを繰り返すつもりなんでしょうねぇ。
“日本の映画鑑賞人口が減っている”ってニュースが先頃流れましたけど、厳しい言い方ですけど当たり前ですよねぇ。だって、観客を増やすにしろ作品の面白さを伝えるにしろ、その努力と方法が
全て間違ってるんですから。「少なくても作品はキミらの物じゃないんだから、もっと大切に扱え!」と怒ったところで、今日のサブタレ怒りのデス・ロードはこれでおしまいー!
ワルキューレの騎行も似合いそう
↓↓お帰りの際にでもぽちりと↓↓