1989年 アメリカ映画 86分 コメディ 採点★★★★
ギャンブルは人生そのものでもう沢山なので、パチンコにも競馬にも全く興味のないたおです。目が真横に付いた生き物や、利益率に基づいた確立が全てを支配する機械に大金をつぎ込む神経が全く理解出来ないのですが、それを楽しんでいる人にそんなことを言うのも無粋ってもんですので、敢えて言うまでも。でもどういうわけか、ギャンブル好きの人って、ギャンブルもやらず、深酒もせず、風俗にもキャバクラにも全く関心のない私みたいな人間を見ると、「何が楽しくて生きてるの?」みたいなことを聞いてくるんですよねぇ。いやぁ、楽しいことだらけなんですけどねぇ。
【ストーリー】
ギャンブルが元で夫婦関係が悪化してしまったタクシー運転手のトロッターは、妻にギャンブルを辞める誓いをたてる。しかし、仲間が仕事中に偶然仕入れた競馬の八百長情報を聞き、「神の恵ぞ!」と競馬場へ。八百長レースだけではなく、全てのレースに勘が冴えまくり勝ち続けるトロッターだったが…。
勝って勝って勝ちまくるだけの、ギャンブル好きのファンタジーのような外見を持つ本作であるが、作り手のギャンブラーに向けられる視線は非常に冷たい。そもそもが八百長をきっかけに勝ち続ける主人公が目にするのは、確実な情報が目の前にあるにも関わらず、猜疑心と欲に駆られ自滅し、その腹いせに主人公へ敵意を剥き出しにする“親友”と、「勝ち続けているのは情報を独り占めしてるからだ」と嫉妬と憎悪の視線を投げかける“仲間たち”の姿である。大金持ちが集まるジョッキークラブも似たようなもので、上っ面だけは整えている分、始末が悪い。主人公は彼らに自分の未来を見出し、勝ち続けるのとは裏腹に、欲に支配されたギャンブル熱が冷めていく。いくら勝っても、過去から積み重ねてきた借金をチャラにするのが精々という現実に気付くシーンは、サラっと描いているが、実に現実的で、実に上手い。
各レースの様子や、判定が出るまでのスリルは相当なものであるが、最後のレースは金銭を求めた賭けではなく、新たに人生をやり直す為の勝負として描かれ、その勝負に仲間たちは誰も同調せず、結局主人公に最後までついて来るのが、自分で賭けることはしない馬券売りと警備員と栄養が全て脳以外に行き渡った美女、そして妻だけというのも、ギャンブル映画にしてはギャンブラーにとことん冷たい。最後はなんとなく大円団で幕を閉じるが、まぁ、ちょっとした気遣い程度のアレですね。
スピルバーグの分身的キャラクターとして、『ジョーズ』や『未知との遭遇』で印象深い存在感を示してきたリチャード・ドレイファス。小柄でのべつ幕なし喋りまくる彼は、子供の心のまま大人になったというよりは、子供が大人の着グルミを着ているようで、近作『ポセイドン』ではその味わいがめっきり少なくなっていたが、この当時はそのキャラクターを存分に活かしコメディでの成功が目立っていた時期。この頃のリチャード・ドレイファスを観ると、加藤茶に脳内変換されてしまうのだが、理由は不明。
そんなリチャード・ドレイファスと『未知との遭遇』で同じく夫婦役で共演し、いつまでも夢を見続けるが大人としての責任感にやや欠ける主人公の前に、社会と常識の象徴として立ちはだかり、夢見がちな観客を思う存分苛立たせたテリー・ガー。『未知との遭遇』といい、『アフター・アワーズ』といい、私のような幼稚な男にとって悪夢のような女性を演じさせれば天下一品の彼女だが、本作ではなんだかんだと言っても主人公についていく都合のいいキャラクター設定で、イライラ度も少なめ。とは言っても、充分致命傷になり得るイライラ感を生み出してくれていますが。
そのテリー・ガーからの現実逃避として存在するジェニファー・ティリー。脳を発達させるよりは身体を発達させる方が得だと判断したような女性を演じさせると、見事なまでに魅力を発揮する彼女。『チャイルド・プレイ/チャッキーの種』など最近はどうにも発達し過ぎて、当初の目的を見失ったかのような体型になってきているが、それでも全くめげずにこんなキャラクターを齢50にもなろうというのに続けているのは立派。立派過ぎ。
走っている姿を観ているだけでも充分楽しいんですがねぇ
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でも、コレなかなか面白かったですよね。
ん〜、ギャンブル・ファンタジーっていいですね。
どうにも加藤茶に見えちゃいまして^^;
ギャンブルは全くやらないんですが、こういう目には一度遭ってみたいですねぇ。