それはさて置き、“体罰”ってのがここ最近の話題に挙がっているようで。この手の話題になると、往々にしてご老体が「昔の体罰には愛があった!」「自分が悪いから殴られるんだって自覚があった!」といった意見を。まぁ、私が通っていた学校も「悪いことしたら殴るよ♪」って私学でしたし、言っても聞かない生徒に対する指導の最終形としての体罰ってのには特に文句もなし。
ただまぁ、残念ながら今の社会が体罰を受け入れられる状態じゃないってのも事実なんですよねぇ。社会が子供を寄ってたかって躾するって関係性どころか、家庭内においてすら躾する側とされる側との関係が成立していなかったりも。近所の子供に悪さをされ怒ったら、その親に怒ったことについて怒られるってな息苦しい社会ですら。こうなると、与える側と受ける側との相互理解で成り立つ“体罰”ってのは成立しないのかなぁと。同じ愛情度で別々の生徒を罰しても、受ける側によって解釈が変わってしまうみたいな。そもそも、教師の職務の中に非常に不確定な“愛”ってのを求めるってのもアレですし、教師が皆聖人ってわけでもないですから。“指導”の範疇を優に超えてたり、単に感情のみで暴力を振るう教師ってのも多いんでしょうし。
じゃぁ、“こういう状況下での体罰のあり方をどうするのか?”って話なんですけど、杓子定規かも知れないんですけど“全て暴力”として一切禁止するのが一番なのかと。「学校は聖域だから…」じゃなく、「学校も社会だから」って論理で。学校は教育と集団生活を学ぶ場であって躾をする場ではない。教師も然り。過度の期待や要求は禁物。存在の意味や立ち位置、責任の所在を明確にするのが必要。
しかしながら、いくら言っても聞かない生徒が少なからず存在するのも事実。子供と大人の関係が社会はおろか家庭でも成立していないからなんでしょうけど。そういった生徒に対し、「愛をもって根気よく」ってのは違うと思うんですよねぇ。それは教師の仕事じゃなく、保護者の仕事。ってか義務。学校の責任を明確にするのと同時に、保護者の責任を明確にするのが重要なのかと。他の生徒も抱えている以上、学校内で形成される社会を乱す生徒に対しある程度の指導を行うが、それはあくまで学校という社会秩序を守るためであって、その問題生徒の人格矯正ではないって感じの。そういったものは、家でやってねってやつ。
ちょっと上手く伝えられてない上にダラダラとしちゃいましたが、要は以下なようにしたらどうかなと。
■体罰は全面禁止
■教員・生徒を問わず、暴力は犯罪行為と位置付ける
■問題を繰り返す生徒に対し、停学・退学・放校(小中問わず)等厳格に実行
■無論、教員に対しても実行
ってな感じ。教育と躾は保護者が背負う義務なので、問題ばかり起こす子供を育ててしまい放校させられ「あらまぁ、次の学校どうしましょー?学区内になければ遠くに通わせなきゃ!っか、高い私学に。大変!」って責任も背負ってもらわないと。苛めっ子が学校に残り、苛められっ子が転校するってのもおかしいですし。
今話題になってる体罰問題に関しては、体罰をした教師についても自殺した生徒についても何にも知らないので、学校の在り方そのものについてちょいと乱暴に考えてみましたよって話でした!
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でもやはり気分とか憎しみとか欲望とか感情を持つからこういうことになるわけで
感情をもたないことを美徳とする社会ををめざして、違反者がいたらクラリックに処刑させる
そんな政党つくりますか!
あ、党首はゆずります
セクハラもそうなんですけど、相手の受取り様で大きく変わってしまうものには、ある程度のガイドラインが必要なんだろうなぁと。
喜怒哀楽によって取る行動ってのは100%否定しないんですけど、アクションには必ずリアクションが付いてくるって常識を、もっと家庭内や社会で教えていかないといけないのかなぁと。
この問題は結局パチンコ同様“罰則はあるんだけど内なる文化としてなんとなくウヤムヤにしてること”なんで、私もそうなんですけどついつい極論で切り込んでしまいがちなんですよねぇ。なんともかんとも、難しい問題で。。。