2005年 アメリカ映画 97分 ドラマ 採点★★
ことの始まりはマット・デイモンだったとか。『グッド・ウィル・ハンティング』だったか『ジェリー』だったか忘れてしまったが、ガス・ヴァン・サントがマット・デイモンとロケ地へと向かう間中、連日カーステレオで大音量で流したのがニルヴァーナの“ネヴァー・マインド”だったという。「がちゃがちゃとうるさいバンドだなぁ」と当初は嫌っていたサントも、その音に込められた叫びや思いに惹かれ始め、今ではロック史上最も優れたアルバムの一枚に挙げるほど入れ込むことに。いやぁ、ジミーちゃんがニルヴァーナのファンでよかったですねぇ。オリヴィア・ニュートン・ジョンとかだったら、どんなことになったか。
【ストーリー】
麻薬リハビリ施設を脱走した人気ロックスターのブレイクは、森の中に建つ彼の別荘にたどり着く。そこで彼は、人生最期の二日間を過ごす。
1991年にリリースされたアルバム“ネヴァーマインド”の世界的大ヒットで一躍スターダムを駆け上ったが、そのプレッシャーや思い通りの音楽をやれない苛立ちからドラッグにのめり込んでいったニルヴァーナのカート・コバーン。そして続くアルバム“イン・ユーテロ”リリース後の1994年4月5日。彼はショットガンで自らの頭を撃ち抜いた。
本作は、そのカート・コバーンの最期の二日間をモデルとしたフィクションである。ガス・ヴァン・サントは自身の監督作『エレファント』同様、客観的に捉えたいくつかの出来事をそれぞれのキャラクターの視点で何度も交差させ、その出来事の羅列が持つ意味を全て観客に委ねる。思春期特有の視野の狭さと息苦しさを、やはり『エレファント』で見事に表現した焦点深度の浅い映像も、人物の視点で使われている。基本的な語り口は、『エレファント』と全く同様と言ってもよいだろう。しかし、あまりに客観的過ぎる。『エレファント』も同じく客観的だったとはいえ、常に登場人物の隣に立った客観性であり、彼らの持つ思いや悩みが言動の端々から伝わってきていたが、本作では登場人物をあまりに離れた位置から眺めているように思えて仕方がない。彼らが何を思い、何を悩み、何から逃れたいのかがあまりにも漠然とし過ぎており、観客に委ねるのは丸投げにも近い。悲しいまでに滑稽な世界を表現したコミカルな演出や、鮮やかな緑を主体にした映像が力強い分だけ、もったいない。
意図的に音楽を使うことを避け、ノイズとも実際の喧騒とも判断しかねない音で主人公の心の歪みを表現しようと努めた本作だが、カート・コバーンをモデルにしたこの主人公の心の歪みは、やはりカート・コバーンの言葉でしか表現は出来ない。ニルヴァーナの実質的最後のアルバム“イン・ユーテロ”の最終曲『オール・アポロジーズ』の一節、「こんな人間じゃなくて どんな人間になればいいのか 悪かったね」と歌う彼自身の言葉で。
一歩も二歩も引いた作りだったせいか、クレジットで初めてアーシア・アルジェントが出ていることに気付き驚く。メイキングではっきりと姿を現した彼女の太りっぷりに、更に驚く。ルーカス・ハースのインタビューもついでに見てみたが、なに大人ぶってんだぁと。でも考えてみればもう30歳。そりゃぁ、大人だ。いつまでも「ジョン・ブックのちっちゃいの」とは呼べないなぁ。で、肝心のマイケル・ピットだが、カート・コバーンに似てる似てないはさておいて、いい雰囲気。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のトミーがまんま大きくなった感じなのだが、この手の役は本当に似合う。
いまだに妻であったコートニー・ラヴによる暗殺説が囁かれるカート・コバーンの死。信じたい思い、信じたくない思い、様々な思いが入り乱れているのであろうが、彼女が“セレブリティ・スキン”で歌い上げる「私の名前なんか忘れ去られている でも、ここに来てよかった」が、喪失感による苦しみから立ち上がった復活宣言に思えた私は、そんな説は信じたくないですねぇ。
ニルヴァーナのアルバムを二枚聞く方が伝わることが多い
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<カート・コバーンをモデルにしたこの主人公の心の歪みは、やはりカート・コバーンの言葉でしか表現は出来ない。
そうですね、インスパイアとは言ってもやはりカートの音楽と言葉が作品中に欲しかったと思います。
「GERRY」からの三部作として考えるとこの最後の作品は直球だった気もしますが、物足りなかったことは確かです、TBさせて頂きます。
ストレートに楽曲を使わなくても、言葉は使ってもらいたかったなぁと。それかせめて“ヘイヘイ、マイマイ”ぐらいは。
なんとも物足りない作品でした。。。
こちらからもお返し致します。
自分はニルヴァーナについてもカート・コバーンについてもまるで知識がないんですが、
この映画における被写体との距離感は、
そのまま彼岸へと達してしまったカリスマとその信奉者(ファン)との間に、
“開いてしまった”距離のように感じ違和感はありませんでした。
本作に漂う底ナシの虚無感こそロックの“祭の後”的な本質をよく表していると、
ロックをやったこともないのに思ったりもしました。
カートに“燃え尽き”に似た感情があったならまだ理解も出来るのですが、実際カーとが抱えてた問題はそんなもんじゃなかったですから、違和感も強く感じてしまいました。会得した撮影スタイルをこの題材に利用しただけのような感覚さえ。
思い入れがある分、厳しい観方になっちゃったんでしょうねぇ。