1998年 イギリス映画 124分 ドラマ 採点★
何度も書かせてもらったとおり、私はデヴィッド・ボウイのファンである。「じゃ、その魅力を書いてみろや」と言われると、別ブログを立てなければならないほどの膨大な量となるのでバッサリと割愛させていただくが、魅力のうちの一つとして挙げられるのが、次々と変貌する彼のスタイルである。“時代の間借人”とも言える彼は、その鋭い嗅覚で起こり始めたムーブメントを嗅ぎ取り、それを巧みに取り入れることによって、いつの間にやら彼自身がそのムーブメントの中心に立っていることもしばしば。その反面飽きっぽいのも確かで、一通り夢中になって「これからは○○だよー」と言ってた舌の根も乾かぬうちに、違うことをやり始める腰の軽さも。ま、おかげで色んな人が待ちぼうけを食らわされることも多々ありますが、当の本人には悪気はなく、すっかり忘れているってのが真相なんじゃないでしょうか?「あれー?そーだったけー?」みたいに。
【ストーリー】
新聞記者のアーサーは、70年代のグラムロック最盛期に絶大な人気を誇ったものの、とある事件をきっかけに没落し今では行方知らずとなった伝説のロックスター、ブライアン・スレイドの追跡調査を始める。同時代を生きたアーサーは、取材を通し、ブライアンを巡る男女関係、そして自らの秘めた過去を蘇らせていく。

言うなれば、『タクシー・ドライバー』でのジョディ・フォスターに熱烈なラブレターを送り続けたジョン・ヒンクリーのそれと何ら変わりないのだ。唯一の違いは、その愛の証ゆえにレーガンを暗殺しようとしたヒンクリーと違い、トッド・ヘインズが銃を片手にボウイの前に立たないだけだ。しかし、その願望も劇中で果たすことになるのだが。
この作品に満ち溢れているのは、ボウイに対する願望と妄想と勘違いと決め付けで、現実に背を向け己の妄想に浸る様は、同人誌の住人のそれと変わらない。もちろん“ボウイファン”としての私のフィルターを通してでの酷評であるのだが、フィクションの中にあまりに数多くの現実を入り込ませ、冒頭に“フィクションだが、声を大にして語られるべきものだ”と入れることで、あたかも真実であるかのように語る作り手の神経を疑う。
何よりも失礼なのは、“グラムロック以降のボウイは価値がない”ものとして扱い、80年代以降は“悪魔に魂を売った別人”的描写をしている脚本を、当の本人に渡してしまう所業だ。根っからのボウイ嫌いか、先に挙げたジョン・ヒンクリー的思考回路の人間にしか出来ない技だ。
この、ボウイやイギー・ポップ、マーク・ボランに対する肥大した妄想と、グラムロックに対する勘違いにまみれた作品には、観てしまった自分を呪う以外の効能が見当たらない。

才能溢れる若者がスターダムを駆け上がり、そして没落していく様を男女関係を交えて描いた定番作品であると言えるのだが、そのギラギラ加減は趣味の問題としても、登場人物がどのような心の変移で人々と交わっていき去っていくのがが、さっぱり明確ではない。イギー・ポップをモデルとしたユアン・マグレガー扮するカート・ワイルドの行動も、「わー、ステキー」と短絡的動いている様にしか見えない。ブライアン・スレイドの行方が分かる展開も、非常に唐突で安易。ゲイであることに対する、過剰なまでの被害者意識も目に余る。ロック映画でもグラム映画でもなく、かといって“ゲイの哀しみ”やデカダン風味も中途半端な本作。『ロッキー・ホラー・ショー』と『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を、トッド・ヘインズはそれぞれ100回観て猛省していただきたい。
“アメリカ人”という文字上の設定以外はすっかりイギリス人のユアンはさて置いて、非常にプラスチック的な目元に肉感のある唇のアンバランス感が魅力のジョナサン・リス=マイヤーズは、少なくともこの作品におけるブライアン・スレイドにぴったり。ボウイにはないその肉感溢れる唇に、監督の願望が見え隠れする。この作品で唯一楽しめたのは、何にでも出る俳優クリスチャン・ベイル。りんごホッペでおどおどするベイルを観れただけ、マシ。
以前もらった質問バトンの“今まで見た中で、最悪な一本!あえてお答えください”に、「そこまで嫌いな映画に出会ったことがない」ようなことを答えたんですが、今なら胸を張って『ベルベット・ゴールドマイン』と答えれます。

一方的な映画には一方的なレビューを
↓↓ぽちりとお願いいたします↓↓
人気blogランキングへ
個人的にはミック・ロンソンやポール・コソフの映画なら観てみたい。
すっかり「アメリカ人の役」だと言う事を忘れていました。
>同人誌の住人のそれと変わらない
“映画”その物が、脚本家や監督の願望だったり妄想だったりするものですが、“現実世界とリンクさせるような表現”を使うのであれば、もっと現実世界の“事実”を勉強してから使って欲しいと思うようなことが確かにありますよね。
アルバムも複数枚所有し初来日も行っておきながら、実のところあまりストーンズが好きでないことに気がついた今日この頃。てなわけで『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』は基本的にノーマークなのですが、どっちのラインで作られようが、ファンは納得しないのだけは確かっぽいですね。
イギー・ポップがモデルだってことを忘れてしまうと、アメリカ人って設定も忘れてしまうイギリス人っぷりでしたw
フィクションとして楽しもうとすると、そこへ無理くり現実を割り込ませるので、居心地が悪くて気持ち悪かったです><
先入観満載の酷いレビューをどうも
デビッドの要素も入ってるよってことなだけでしょ、誰もデビッドの事だとは言ってないのに勝手な情報や意見がそうしているだけでしょうが。
そういう事の憐れみや反感を歌ったのがグラムロックでしたよね、ボウイのファンさん(ブログには書ききれないほどの思い入れのある)。
あと監督はデビッドの事が嫌いではないと思いますよ。これは私の意見ですが。皮肉のつもりならおふざけがすぎるぞ、ばかものが。
どうにもネット界隈だと「ソース出せ!」が口癖のようなんですが、随分と昔に雑誌で読んだだけなんで、「忘れた!」と。まぁ、別れた奥さんが書いたセンセーショナルだけが売りの暴露本をベースにした作品なんで、ボウイが公認しないのも当然っちゃぁ当然でも。
>デビッドの事が嫌いではないと思いますよ
私もそう思いますよ。“好き”の形が特殊なだけで。
ただまぁ、
>誰もデビッドの事だとは言ってないのに
この理屈が通っちゃうと、とんでもないことになる気も。
あ、ちなみに
>そういう事の憐れみや反感を歌ったのがグラムロックでしたよね
ボウイやマーク・ボランは、あんまりそういうテーマの曲を歌ってはいない気も^^;
まぁ、二度と来ないであろう名無しの捨てコメに返事を書いてもしょうがない気もしますが、ちょっと気になったので返信を。