1982年 アメリカ映画 94分 アクション 採点★★★★★
映画好きを公言していますと、「どんな映画が好きー?」「オススメは何―?」ってよく聞かれますよねぇ。若い頃は、背伸びしたい年頃ってのもありますし、当時流行ってたミニシアターブームってのもありましたから、「ジャームッシュがどーのこーの」「ゴダールはね…」など随分と無理をしておりましたが、最近はもっぱら「筋肉!ゾンビ!美女!マチェーテ!!」と非常に自分に素直になった私。歳を重ねるって、別に成長するって意味ではないんですねぇ。
【ストーリー】
戦友を訪ね、山間の田舎町を訪れたベトナム帰還兵ジョン・ランボー。しかし戦友は、戦時中の薬品の影響で既に死亡していた。失意を胸に長閑な町ホープへ食事を求めて足を踏み入れたランボーだったが、町の秩序を重んじる保安官ティーズルによって逮捕されてしまう。拷問じみた取り調べによりベトナム時代のトラウマが蘇ったランボーは、保安官らを殴り倒し山中へと逃げ込む。ランボーを追って山中に入った保安官らだったが、ゲリラ戦の達人であるランボーの返り討ちに遭い…。
映画にしろ音楽にしろ、10代前半に受けた影響がその後の嗜好を大きく左右するとよく言われますが、デヴィッド・ボウイとランボーとゾンビとデュラン・デュランがあれば概ね人生幸せな私なんか、モロそれに当てはまるなぁと。『燃えよドラゴン』や『ダーティハリー』『エクソシスト』なんかをリアルタイムで体験した上の世代も羨ましい限りですが、筋肉とスプラッターに塗れてた私の世代も、なかなかのものじゃございませんか。
で、本作。今のアメリカ大統領の名前を知らない世界の片隅に住む人でも、ランボーの名前だけは知っているってほどの作品に、今更アレコレ書くのもおこがましい気もしますが、思い入れだけはタップリある作品なので、その辺をダラダラと。
本作に対し筋肉映画の火付け役的紹介をされているのを見る度に、「それは『コマンドー』か『ランボー/怒りの脱出』だろうがよ」って思ってしまうのはさて置き、デヴィッド・マレルの原作“一人だけの軍隊”を『地獄の7人』のテッド・コッチェフが映像化した一本。必要ではあるが、下手をすれば間を悪くするだけでしかない人物や状況説明をバッサリとカットし、出来事だけを矢継ぎ早に映し出すスピード感が圧巻な本作。ランボーの行動だけを押さえれば、“立ち寄る→捕まる→逃げる→落ちる→反撃する→町壊す→泣く”の7項目だけで済むシンプルさ。もちろん、薄っぺらい内容をテンポで誤魔化すような作品なんかではない。“不当な扱いを受ける男の逆襲”“過酷な状況下でのサバイバル”“あのナイフ、すげぇ!”など、男子魂に火を点ける素敵要素がたんまりと盛り込まれているのが、まず素晴らしい。本作を観た男子は、山を見る度に「オレだったらこーやってあーやってサバイバルして…」と夢想したに違いない。絶対そう。私がそう。それも、未だに。
そんな素敵要素だけではなく、「この辺とこの辺で見せ場作っとけば、とりあえず退屈しないんじゃないかなー?」なんて甘えが微塵も見えない、序盤から徐々にエスカレートし続ける展開に、テッド・コッチェフのゴツゴツとしつつもスピード感溢れる演出があったからこそ、30年近く経つ今観ても当時と変わらぬ興奮を味わえる作品に仕上がってるのではと。当初、監督候補として名前が挙がっていたマイク・ニコルズやブルース・ベレスフォードなどが監督していれば、『脱出』や『サザン・コンフォート/ブラボー小隊 恐怖の脱出』みたいな味わいを持つ記憶に残る作品に仕上がってたかもしれませんが、ランボーのない世界は嫌なので、やっぱりテッド・コッチェフで正解。
“人物と状況説明をカットし、シンプルにまとめられている”とは書いたが、物語がないわけではない。それどころか、二人の主人公の物語を平行に描き、しっかりと絡め合わせてさえいる。“二人の主人公”とはもちろん、ランボーとティーズル保安官のこと。
ランボーからすれば、戦友の死を知ったばかりで落ち込んでる上に腹が減ってると言うのに、問答無用に町から追い出され非常に機嫌が悪い。ランボーが御立腹なのもよく分かる。だがティーズルからすれば、誰もが顔見知りの小さく平和な町に、アーミージャケットにもじゃもじゃ頭の見知らぬ男が辛気臭い顔でやって来れば警戒するのも当然で、穏便に済ませるためにも町を通過させようとしたのも分からなくはない。「飯くらい食わせてやればいいのに」って言うのもごもっともだが、一応原作ではしなびたタマネギが挟まった不味いハンバーガーを食わせてはいる。双方共にもうちょっと気を遣うべき余地こそあれど、行為が間違っていたとは断言できない。そんなちょっとしたボタンの掛け違いのような発端の些細さがあるからこそ、“追う者と追われる者”の物語へと発展し、それが逆転していく物語の面白さが強調されているようにも。二人のうちどちらか一方に物語が集中してしまえば単なる逃走アクションになっていたのであろうが、理不尽な扱いに怒るランボーと、若干の後ろめたさを抱えつつも町の秩序を守ろうとするティーズル双方の姿、“相手が先に手を出した”としっかり主張できる様をしっかりと平行に描いていたから、この面白さが生まれたのであろう。
本作には、極悪非道な“殺されても構わない”悪人は一切登場しない。“一見”ランボーの戦っている相手に見えるティーズル保安官も、町の秩序を守る事に生き甲斐を感じているそこらの気の良いオッサンでしかない。映画では家庭での描写などゴッソリと削られてしまっているが、ブライアン・デネヒーの風貌で足りない部分は全て説明が出来る、気さくで頼りがいのある住民に愛される善良な人間だ。町の秩序を守るためには手段を問わぬ様に、『許されざる者』でジーン・ハックマンが扮したダゲット保安官を思い出すが、ダゲットの根っこにあるのは、彼が建築中の家の直せないゆがみ同様、ねじ曲がってサディスティックな暴力性である。一方のティーズルの根っこにあるのは、長年住み慣れた町と住人への愛着である。確かに短気でプライドが高いその性格のせいで事態が悪化してしまうのだが、本人もその辺には自覚があるようで、時折見せるばつの悪そうな様に人間らしい親しみを覚えてしまう。
また、ランボーの行為によって唯一命を落とすガルトも、暴力的ではあるが、言う事を聞かない若造を力でねじ伏せようとする、これまた、よくそこらに居るオッサンだ。役割やバランスとして、自分のような存在が必要であることを自分が一番理解しているタイプだ。過剰な暴力に出てしまう故に誰からも愛されるような人物ではないが、殺されても構わないような人間ではない。オロオロするだけの若い保安官らや、初めての実戦にお祭り騒ぎとなる町民らで構成された州兵らも気の良い連中で、決して倒されるべき悪役ではない。そんな、極端に偏狭なわけでも意地が悪いわけでもない一般的な住人によって追い詰められてしまう理不尽さが、後に筋肉殺戮マシーン大暴れとなるシリーズの中に於いても、本作が特別な作品として輝き続けている大きな要因なのではと。
こうして見てると、ランボーが戦っていたのは保安官でも州兵でもないような気がしてくる。「じゃぁ、何と戦ってたんだい?」となるが、答えは単純に“アメリカそのもの”。ここで登場するのが、サム・トラウトマン大佐。原作ではランボーを作り上げた創造主として登場し、制御不能となった機械を強制終了するが如くランボーの背後から後頭部をショットガンで撃ち抜くトラウトマン。映画ではより父親っぽくソフトに描かれているが、厳しい訓練で殺戮機械を作り上げた張本人であることには違いない。わざわざ町にやって来たのも、いざとなったらランボーを強制終了させるためだ。実際カットされた別エンディングでは、ランボーに引き金を引かされる形ではあったが、強制終了を実行している。トラウトマンが象徴しているのは、多くの若者を過酷な戦場に放り込み、そして見捨てた国家そのものである。その辺は、原作者自身がサム・トラウトマンをアンクル・サムをイメージしていることからも明白。ざっくりとまとめれば、ランボーとトラウトマンの関係は、フランケンシュタイン博士と怪物の関係と同じようなもの。国という父親相手に、ベソをかきながら反抗する息子の物語である。まぁ、国家の象徴であるトラウトマンの胸で泣き崩れる締め括りに、国家に反旗を翻す物語のはずが父子の和解に軸がぶれてテーマがぼやけてしまった感じもなきにしろあらずだが、着地点としては観客が一番安心できる地点なのではと。
続編以降、筋肉殺戮マシーンという別次元の怪物に変貌してしまうが、本作のジョン・ランボーは特殊な訓練を受けたベトナム帰還兵って以外は、ごく普通の男である。オープニングでは、これ以降見る事のなくなった笑顔なんかも見せてるし、他人と普通にコミュニケーションが取れている。黙々と仏像を彫ってたり、蛇を捕まえてたりはしていない。もちろん、特異な部分もある。原作では、常に効率的かつ効果的な殺戮方法を考え、速やかに実行する姿が描かれているし、映画では実行こそしないが、相手の動きや武器の位置を常に確認する視線に、それは描かれている。でも、それは訓練の賜物であり、殺人嗜好に偏った人物であるというわけではない。自業自得の事故だったガルトの死体の前で、「俺は何もやってない!これは事故だ!もう終わりにしよう!」と必死に弁明する様は、非常に人間的な行動。保安官を全員殴り倒しておきながらも「何もやってない!」と言い切る様も、まぁ非常に人間らしい自己チューさ。
そもそもランボーは、国の為に命を掛けて戦った愛国者である。たとえその戦争が、動機も理由も切っ掛けもアヤフヤな大義なき戦争であっても、それは一兵士が責められるべき問題ではない。国を信じ、任務を遂行しただけでしかない。しかし、終戦を迎え故郷へ帰った彼らを待っていたのは祝賀パレードではなく、ありとあらゆる非難と冷遇である。ランボーが叫ぶ「戦場では100万ドルの兵器を扱ってきたのに、国に帰れば駐車場の受付の仕事すらない!」は、その状況を見事に言い表したセリフだ。帰還兵の怒りや失望を代表するランボーに、その帰還兵に対し非難を浴びせかけた大衆らで構成される保安官や州兵ら、そして戦争を作りだし多くの若者を死地に送りだしながらも見捨てた国家を象徴するトラウトマン。本作は、“ベトナム戦争後”のアメリカを見事に表現した作品である。
本作の成功には、1980年代前半という時期的タイミングも要因として大きい。ベトナム戦争そのものと、帰還兵らに行った対応から直視を避けてきた70年代が過ぎ去り、“ベトナム戦争とは何だったのか?”と正面から向き合うことが可能となり、尚且つ帰還兵らに対する罪悪感が芽生え始めた時期だったからこその成功だ。ランボーが戦争の英雄であることを知った保安官らのばつの悪い様子に、観客らも持つ罪悪感が映し出されている。そして、虐げられし者であったランボーが一人母国に宣戦布告し暴れまわる姿に興奮し、声を挙げ応援する行為を経て、観客のそれぞれが長年心の中に持っていた罪悪感に落とし所を見出したようにも。
それにしても、時流を嗅ぎ取ることに関して、スタローンは類稀なる才能を発揮する。一般的なイメージとしては概ね“筋肉”に集約されがちなスタローンだが、自分の売り込み方を熟知する計算高さ、風潮やニーズをいち早く察知する嗅覚の鋭さには目を見張るものが。ほろ苦い結末ばかりだったニューシネマブームの末期に『ロッキー』を放ち(当初の結末はニューシネマの流れを汲むものだったが、なんだかんだで現在の物に書き直す)、当初は乗り気じゃなかったランボー役も、自身が脚本に携わる中で現在の形に仕上げ、先に挙げた「戦場では100万ドルの兵器を扱ってきたのに、国に帰れば駐車場の受付の仕事すらない!」のセリフで観客の心を鷲掴みにし、巷に大量の“自称ベトナム帰還兵”が出現する社会現象まで生み出したスタローンの映画作家としての手腕は、もっと評価されるべき。“筋肉”ってフィルターがかかった色眼鏡で作品を観られがちだし、確かにそういう作品もあるけれど、庶民の生活描写の細かさや、労働者の心を揺さぶるキャラクター描写の上手さに長けた映画作家であることを、是非とも再確認していただけたらと。
企画の段階でランボー役の候補に挙がった、及び挙がったと噂される役者の面々を羅列してみると、ダスティン・ホフマン、アル・パチーノ、ニック・ノルティ、ジョン・トラヴォルタ、マイケル・ダグラス、クリス・クリストファーソン、ジェームズ・ガーナー、ジェフ・ブリッジス、ロバート・デ・ニーロなどなど、錚々たる顔ぶれがリストにズラリと。まぁ、どんな企画でも最初に名前が挙がりそうな面々ではありますし、企画の段階なんで多少好き勝手なことも言えますが、それにしても凄い顔ぶれ。だが、それらを蹴散らして最終的にキャスティングされたのが、『エクスペンダブルズ』『ロッキー・ザ・ファイナル』のシルヴェスター・スタローン。
当時のスタローンと言えば、『ロッキー』で一躍スターダムを駆け上がるも、ロッキー以外に当たり役がない一発屋の香りが漂い始めていた時期。それ故に焦りが警戒心を生み、ランボー役に乗り気じゃなかったらしいが、いざ演じてみれば、素朴で気の良いロッキー・バルボアとは正反対のキャラであるジョン・ランボー役がドハマリ。世界中の男子が熱狂するキャラクターが誕生することに。先に挙げたリストの誰もが、間違いなくスタローン以上の名演を見せたであろうが、人を熱狂させるのは名演だけではないことを立証。
一方、ティーズル役にキャスティングされた『ボーダー』のブライアン・デネヒーは、本作で見せたタフで正義感の強い頼れる男の印象の強烈さから、本作以降仕事が殺到。善玉・悪玉問わず強烈な存在感を放つ俳優に。特に、『殺しのベストセラー』や『ブルーヒート』など、警察絡みの役をやらせるとピカイチ。また、トラウトマン役として現場入りまでしたいたものの、「ランボーは死なんといかん!」と製作者側に要求し続け、丁寧に御退席頂いたカーク・ダグラスに代わって急遽現場に呼び出されたリチャード・クレンナも、とても付け焼刃とは思えぬ仕事振りで、強さと優しさを兼ね備えた父親的トラウトマンを好演。
その他にも、『セッション9』のデヴィッド・カルーソーや、『クローバーフィールド/HAKAISHA』のクリス・マルケイなど、誰もが印象的なのであるが、その役者の誰よりも強烈な存在感を放っているのが、『ポルターガイスト』のジェリー・ゴールドスミスによる音楽と、クリスマスを目前に控えた肌に突き刺さるような寒さを感じさせる山間の風景と、平和そのもののような小さな町ホープの町並み。この、生きてる内に一度は訪れたいカナダはブリティッシュ・コロンビアのホープの風景と、ジェリー・ゴールドスミスの音楽がなければ、本作は完成し得なかったのでは。特に、ダン・ヒルの甲高い歌声と対訳が若干物騒になってるテーマ曲“IT'S A LONG ROAD”は、“車行き交う山道を一人歩く時に歌う曲”第1位に選ぶべき名曲。そんな状況にいつ陥るか分かりませんが、陥ったら必ず歌う。初めてアコースティック・ギターを買った時なんか、“天国への階段”や“禁じられた遊び”なんてそっちのけで、この曲のアルペジオばっかし練習してたもので。いまだに弾いてますし。
こっからしばらく帰れない
↓↓お帰りの際にでもぽちりと↓↓
のキャストになるんですかね
でもグレーのタンクトップの
汗臭い感じは やっぱ無理かなあ
この頃のスタローンて
移民臭というか
とにかく切ない感じが印象です
セガールのランボーとか
も見てみたい気もしますが
たぶん取り調べ前に
ことが済むんでしょうね
セガールなら、山に入ることすら面倒臭がりそうなので、保安官全員の骨をボキボキ折って終わらせるんでしょうねぇ。
小六と申しますー
書き込みさせていただきます
ランボーも保安官側もどちらもすごく悪者というわけではないのですが、どうしてこんなに事が大きくなってしまったのか…という感じですね
(*^-^*)
内容はシンプル
しかしその奥に感慨深いもの、そして公開が82年!
その時代がランボーブームを作ったとも言えるかもしれません
とにかく面白く観る事が出来ました!
ちょっとしたボタンの掛け違いと、つまらない意地の張り合いなんですよねぇ、根底にあるのは。どちらも悪気はなかったのに、小さな戦争が起こってしまう。
時代背景から何もかもが見事に合致して生まれた傑作ですよねぇ。