2009年 アメリカ映画 112分 ドラマ 採点★★★★
親が子供を殺すニュースほど、聞いていて陰鬱な気分になるものはないですねぇ。“子供は親の所有物である”を前提にしたかのような罰の軽さも、その気分を一層増させるものです。確かに親は子供を養い、守り、導く義務があるんですけど、それが子供の先行きを好きにしていいって理由にはならない。いつも思うんですが、その義務が子供を殺したくなるほど嫌ならさっさと捨てて、育ててくれる人に頼めと。殺されるより全然幸せだと。“血筋”のみが親子を成しているんじゃないんだと。
【ストーリー】
文明も自然も崩壊した死にゆく大地を、一組の父子がひたすら南を目指し歩き続ける。満足な食料も水もない中、父親は寒さと飢えと人肉を求め彷徨う暴徒らから息子を守りながら、ひたすらに歩き続ける。
『ノーカントリー』のコーマック・マッカーシーの原作を、『プロポジション -血の誓約-』のジョン・ヒルコートが映像化したドラマ。
世界を焼き払う炎が唯一の暖色である寒々しい色に統一された極限状態の中、父と子が目にした風景や出来事をそのまま映像化し、積み重ねていく中で父子の絆や親の役目、人間性の本質を浮かび上がらせていく本作。“父子の絆や親の役目、人間性の本質”と私は書いたが、それはあくまでこの映画から私が受け取った分かり易い一部分でしかない。「言いたい事はこれです!どうぞ!」と差し出される親切な作品ではなく、それぞれのシーンの余韻や空いた隙間を受け手自身が解釈し汲み取る必要がある作品に仕上がっている分、苦手な人は大いに苦手なタイプの映画であろうが、一つ一つの場面を自分に置き換えながら観賞することで、人それぞれ“何か一つ”強く胸に突き刺さる作品にもなっている。
『ミスト』の父親同様に、愛する我が子が他の者の手にかかるくらいならば、自らの手で楽にすることを堅く誓う父親。その子供を愛する姿は胸を締めつけられるほどである一方、独善的でもある。“守るか死か”の二択。正しくもないが、間違ってもいない。一人歩きの出来ない子供に対する愛情として、賛同は出来ないが理解は出来る。しかし父親は、自らの死を意識することによって子供に対する接し方も変わって来る。子供も、父親の矛盾に気づくことで成長している。その成長した息子に、父親は自分亡き後の生きる術を教えようとする。子供が一人でこの荒れ果てた土地を歩いて行けるように。助けの求め方も一緒に。異常な状況下での物語であるが、これは現実社会となんら変わらない普遍的な物である。彼らに名前がないのも、ある特定の人物の特定の物語なのではなく、親子の普遍的な物語として描かれているからなのでは。親は自らの死を意識して初めて親としての役割を理解し、子は親の死をもって初めて大人となる。
人間性についても幾通りも解釈が出来る本作。“人を食べない=善 人を食べる=悪”。これは本作の父親が自分に課した善悪の基準でしかない。その父親も人を殺すが、それは“息子を守るため”という大義名分の上での善であると自分に言い聞かせている。では、もし襲い来る人喰いが家で待つ息子の為に襲いかかって来たのであれば、それは善になるのか?答えなんか出るわけはない。自分にとっての善が、相手にとっての善とは限らないのだから。共食いをしてまでも生き延びることや種を存続させることは生物として間違ってもいないし、“動物”ではなく“人間”として共食いを拒むのも間違っていない。
宗教的な寓話として解釈することもできる。聖書の言葉が用いられたり、教会が登場したり、唯一名乗る登場人物の名前(その名を聞いた父親の反応から伺う限り、本当の名前ではなさそうだが)が“イーライ”と聖書を彷彿させるものであることからそうなのだが、その反面、特定の神の名は出てこない。祈る対象も“みんな”であり、アーメンも言わない。ある特定の宗教的解釈を拒んでいるかのようでもある。
なんともここまで“○○であり、○○でもある”と煮え切らない事ばかり書き連ねてしまったが、これだけはハッキリと断言できる。役者がどれもこれも素晴らしい。
特に素晴らしいのは、やはり『ヒストリー・オブ・バイオレンス』『ゴッド・アーミー/悪の天使』のヴィゴ・モーテンセン。人間的弱さの上に父親という鎧を着たかのような、強さと弱さと矛盾と嘘と愛情がごっちゃになった象徴的父親像を見事に表現。全面的に正義のオーラを出す役者では演ずる事が出来ない役柄だけに、ヴィゴはまさに打ってつけであったのでは。『イースタン・プロミス』同様、アッパレなほどの脱ぎっぷりの良さを披露しますし。
また、本作における善行と優しさの象徴である息子役のコディ・スミット=マクフィーも、非常に印象的。こんな息子を遺せるなんて、ある意味父親冥利に尽きるとも。一方、回想シーンのみに登場し、幸福と混沌の時期をその顔色一つで表現した『イーオン・フラックス』『スタンドアップ』のシャーリーズ・セロンも良い。確かに回想シーンが多過ぎるような気もしたが、単調になりがちの本作のスパイスとしては効果的であった。
その他にも、信憑性はさて置き唯一名前のあるキャラクターとして登場する『ペナルティ・パパ』のロバート・デュヴァルは、短い登場時間ながらも親子のキャラクターを引き出す重要な役柄を演じ、作品中最も印象的なエピソードとして作り上げることに貢献。それにしても、男子の憧れナンバー1に違いないキルゴア中佐も、もう80歳になるんだぁ。そりゃあ私もこんな歳になっちゃうわけですねぇ。それはさて置き、最後にこの監督とは『プロポジション -血の誓約-』でも組んだ、ガイ・ピアース。自ら強烈な存在感を発するタイプじゃないだけに、主演であっても周りに喰われがちな彼だが、本作では一人ポツンと登場するのでそんな心配もなし。メイクを加え更に善悪アヤフヤな胡散臭さを漂わせただけに、息子最後の選択として非常に迷わせる役柄を好演。最後に救いがあるからまだいいのだが、あれがガイ・ピアースのみであったら、非常に不安な余韻のまま幕を閉じてしまっていたのでは。
『プロポジション -血の誓約-』では脚本を書いたニック・ケイヴによる、作品の余韻をそのまま音にしたかのようなサントラも結構好みの出来。小説が原作ではあるものの、一つの曲を映像化したかのような印象も受ける本作だけに、サントラにそんな印象を強く受けたのかも。
こんな文末であれだが、似たような状況と景色からなにかと『ザ・ウォーカー』と比べられがちな本作。ただ、似てるのは景色だけで、語り口も語っている事もジャンルそのものもなにもかにも違う作品同士を比べても、なんにも出てこない気もしますが。
これが父と娘の物語だったら、こうはならない
↓↓お帰りの際にでもぽちりと↓↓
地味な作品ながら 深く考えさせられる
終末映画でした
主役の2人の演技の素晴らしさ
そして ロバート・デュヴァルがイイですね
世間様の評価は、いまいちですが、あたしもこっちは好きですわ。
ゾロアスター教みたいに二元論の世界で、ずるいっちゃ、ずるい作りですが、それを納得させるヴィゴお父さんと、その息子の存在でした。
この少年が、今度「ぼくのエリ・・」のリメイク版に出るようなンで、またお目にかかれると思います。
>親は自らの死を意識して初めて親としての役割を理解し、子は親の死をもって初めて大人となる。
正にそうですね。
もはやおじさんの分類にどっぷりの私です。
子供もいます。
どうしても、ヴィゴ・モーテンセンの目線で物語を共に見ていました。
すごく、共感できる部分が多く感じられた作品でしたよ。
終末映画というか、素晴らしい“子育て”映画でしたねぇ。ロバート・デュヴァルも基本いつも良いんですが、今回もアドリブを交えなかなかスリリングな役回りを好演してたのではと。
社会に出ると、常に矛盾に晒され、誘惑と苦難がいっぱいあるってのを映し出した作品でしたねぇ。
確かに二元論は逃げに使われてしまう場合もありますが、仮想の極限状態を用いて現実を映し出した今回は、この方法論が正しかったんじゃないのかなぁとも。
長寿国だと、次世代がなかなか大人にならないってのが言われますけど、ホントそうなのかもしれないなぁと。いつか経験する親の死が、子供にとって重要な通過儀礼で、それを経験して初めて大人になる。で、それの繰り返し。そんなことを考えさせられましたねぇ。
原作の方を先に読んでしまい、映画は未見です。
原作は傑作です。今のところ私のベスト1です。
ただし誰にでもお勧め出来るわけではではありません。
と言うのもただもう辛い。いろんな意味で。
何故なら、全編を覆う重苦しい雰囲気と暗く陰惨な内容が、
静謐で正確な描写で描かれ、しかもそんな内容なのに、
次に何があるのだろうと続きを読まずにはいられない。
読み終わるまで非常に辛かったです。
でも面白いからどんなに辛くても途中で放り出せない。
そしてそれをしのいでたどり着いたラスト一節の文章が、
あまりに深く美しくて、
会社の休憩時間に読んでたタリーズで、号泣しそうになりました。
このラストを読んで欲しいけど、多分途中をはしょったり飛ばしちゃうと、
これほど感動することは無いと思うので、皆には勧めにくい本です。くすん。
映画。
どうしようか、迷い中。
コーマック・マッカーシーの作品の映画化って
ちょっと肩透かし的なことが多いので。
二時間って枠に収める事に無理があるっていうか・・・。
原作は相も変わらず未読なので比較はできませんが(読んでても比較はし難いですが)、受けた印象は似たような感じなのかも。静かなのに騒々しく重々しい、でも胸を締め付ける感情に襲われる映画でしたねぇ。