1972年 アメリカ映画 101分 西部劇 採点★★★★
好きなものは隠してしまうという小動物のような性格の為なかなかここに書く事のなかったイーストウッド映画。もっぱらミッキーさんやウィルソン兄弟の大ファンとして定着しつつありますが、実はクリント・イーストウッドのファンだったんです。似合いませんか?
湖畔の小さな町ラーゴに流れ着いた名もない男。言いがかりをつけてきた男達をまたたく間に撃ち殺した腕を買われ、刑期を終えこの町に復讐に来る無法者から町を守るよう依頼される。しかし、一見善良に見えるこの町にも町民にも忌まわしき過去が隠されていた。
“見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉が従っていた。”(ヨハネの黙示録)
“名もなき男”。後に『ペイルライダー』を作るように、“黄泉より戻った男が死神として帰ってくる”というプロットを、イーストウッドは好んでいるようだ。荒野からの来訪、苦難と死からの帰還はもとよりこの作品のラスト、名を聞かれ「知っているはずだ」と答える描写は全て聖書からの引用といえる。この趣向がより明確になるのが『許されざる者』だ。長い苦難の旅の末、瀕死から蘇った男が生まれ変わったかのように戻ってくる。ただし救世主ではなく死神として。介護する売春婦をマグダラのマリアに置き換えれば、なお明確になるはず。
“大事なものは自分で守れ”と説教臭い非常にアメリカ的な物語にもなり得る作品だが、イーストウッドは全くその方向で描かない。勧善懲悪を描く古き良き西部劇と一線を画すイーストウッドが描くのは、その“良き西部劇”の裏側だ。この作品での悪役は無法者ではなく、善良な町民たちである。面倒な事は他人任せで、自分達の小さな利益を守るために大きな罪を犯す。しかしその罪も、責任を住民全員の頭割りで分担しようとする為罪悪感も小さい。その私達を含むどこにでもいる小市民に対し、イーストウッドは改心を迫るわけでも説教をするわけでもない。ただひたすらその醜態を晒すだけで。クライマックス、鞭の音に忌まわしき過去を思い出し顔を歪める様は醜悪で哀れですらある。監督2作目とは思えぬ落ち着いた演出を見せる作品だが、このシーンは特に秀逸だ。
作品とは全く関係ない話なのだが、ワーナーを中心に数多く出ているイーストウッドのDVD。だがそのほとんどは日本語吹替なし。基本的に映画は字幕で観る方なのだが、イーストウッドに関しては吹替えでも観たいんですよ。もちろん山田康夫さんの吹替えで。TV放映時のでよいので、出してもらえれば持ってるDVD全部買いなおしますよ。
乗馬姿がさまになる俳優も少なくなりましたね
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嬉しくなって、三つもTBしちゃいました(笑)
ファンの割には、この頃の大事なイーストウッド映画スルーされてますしね^^;
記事読ませて頂きましたが、感服です。私も観るたびに随時アップしていきますね♪