監督 ニール・ブロムカンプ 主演 シャールト・コプリー
2015年 アメリカ/メキシコ/南アフリカ映画 120分 SF 採点★★★★
「こんな環境じゃ、やる気も出ねぇ!」と不平不満を漏らす方っていますよねぇ。私も“
やれと言われるとやりたくない”って性質なので分からなくもないですし、子供なんかにとっては状況や環境ってのは大切なんだろうなぁと。ただ、大人はある程度自分をコントロール出来るんだから、そんなやらないで済む理由をウダウダ探してないで、まず“やれ”。“やる”と自分で決めろ。
【ストーリー】
2016年。凶悪犯罪が多発する南アフリカのヨハネスブルグでは、軍事企業テトラバール社が開発した警官ロボットが導入され一定の成果を挙げていた。その警官ロボットの開発者の一人であるディオンは画期的なAI(人工知能)を開発し廃棄されたロボットに搭載するも、ギャングにロボットもろとも誘拐されてしまう。ギャングはそのロボットを“チャッピー”と名付け犯罪の手助けに使おうとするも、チャッピーの知能はまだ赤子程度で…。
『
第9地区』のニール・ブロムカンプによる、赤子のロボコップをギャングが育てるっていう奇抜な設定が光るSFアクション。
犯罪者を生み出すのは貧困などの劣悪な環境なのか?それとも、その環境に置かれていても正しい導きがあれば正しい人間になるのか?そんなアパルトヘイトの下で迫害されてきた黒人層のみならず、近年白人の貧困層が拡大しそれがまた犯罪の温床となっている南アフリカの社会問題を見つめた、非常にブロムカンプらしいテーマで描かれる本作。そして、その実験台となるのが赤ん坊同様まっさらな状態からスタートし、接し方や教育、環境や境遇によって性格や性質が形成されていくロボット“チャッピー”。僅か数日の寿命しかないチャッピーが周囲のエゴや思惑に振り回され、見た目の違いから迫害され、騙され、そして愛されながら急成長をしていく様を時にユーモラスに、時にエモーショナルに描く。“父”の教えに則り悪ぶってみたり、“創造主”からの絵本のプレゼントに子供のように喜んだり、その絵本の持つ本当の意味を“母”に教わる様には大いに笑わされ、知らぬうちに涙腺を緩まされ、そして“人間とは?”という大きな疑問が目の前にぶら下がってくる、めまぐるしいまでの展開に振り回され心を鷲づかみにする圧巻のストーリーテリングに驚かされる。
ここから先は大いにネタバレするのでご注意を。警告しましたからね!ただこの作品、終盤にとんでもない展開へと突き進む。
僅かしかない寿命の中で芽生える人間性や葛藤といえば『ブレードランナー』のバッティが浮かぶのだが、本作はその影響を強く受けながらも全く違う展開を見せる。生命は限りあるからこそ美しく尊いということを理解したバッティだが、チャッピーは違う。「意識をコピーすればいいじゃん!」ってなる。元々ロボットである自分だけならまだしも、瀕死の創造主や最愛の“母”に対しても同様に「コピーすれば皆ずーっと生きれる!」ってなる。
これには驚いた。
ネタ元のひとつであろう『
ロボコップ』にも、瀕死の相棒に対しロボコップが「大丈夫!オレのように直してくれる!」って台詞があるが、あれは強烈な皮肉であった。ただ、チャッピーのそれには皮肉が全く感じられない。
チャッピーの健気さや愛くるしさに多少誤魔化されているのかも知れないが、機械の身体となり生きながらえるのがハッピーエンドのような描き方なのだ。私自身“人間を人間たらしめてるのは意識”と考えてる方なので、それが結果機械であろうが否定はしないんですけど、本作の“肉体は意識を収納する器でしかない”っていうドライさにはちょっと驚いた。「なんだい?これはデヴィッド・クローネンバーグの映画なのかい?」と。ただ、クローネンバーグの場合は“不完全な肉体を別の物質と融合することで補完する”という考えを医者的な鋭利さと粘膜質な描写で描くのに対し、ブロムカンプのそれは
ボルト&ナットの工学的なドライさという違いはありましたけど。
虫けらにしか見ていなかった異星人と同化する『
第9地区』にあった皮肉がなくなり、ごく当たり前かのように白でも黒でもないまるで別のものに変化する本作の結末に、「あぁ、この監督は今の人間の形ってのに限界を感じてるのかなぁ…」と考えさせられた一本。宗教上の理由からAIを否定するライバルが
とことんゲスに描かれているところからも、そんなことを推察させられましたし。
それにしても、最近お気楽な娯楽作しか観ていなかっただけに、既存の宗教や倫理観に全く縛られない進化の形を見せてくれる、こんな
考えさせられる娯楽作は久しぶりで嬉しい限りで。
非常に人間らしい感情を持ちながらも、寿命に関しては葛藤ほどほどに人間離れした前向きさを見せたチャッピーの声と動きを担当したのは、『
オープン・グレイヴ 感染』のシャールト・コプリー。彼自身の姿を思い描いちゃうとちょっとアレですが、身のこなしのみならず細かな部品の動きで感情を表現するチャッピーが捨てられた子犬みたいでなんとも可愛い。同じ性能と同じプログラムで動いてるにもかかわらず、なぜか
こいつだけいっつも壊れるって時点で愛される気まんまんですし。えぇ、もうそこから愛してましたよ。
その他、『スラムドッグ$ミリオネア』のデヴ・パテルや、『
リアル・スティール』同様ロボットは自分で操縦しないと気が済まない『
X-MEN:フューチャー&パスト』のヒュー・ジャックマン、『
キャビン』のシガーニー・ウィーヴァーといった大物がキャスティングされているが、やはり一番目を奪われたのがチャッピーの“父と母”に扮したニンジャとヨ=ランディ・ヴィッサーの二人で。
この作品を観るまではその存在を知らなかったんですが、南アフリカの貧困白人層のアイコン的なラップグループ“ダイ・アントワード”のラッパーの二人だとか。役名はそのままだし劇中には彼らの楽曲ばかり流れてるんで一種のキワモノ的扱いかと思いきや、チャッピーに会うや否や瞬く間に母性を発揮し“母”となるヨーランディに対し、“父”としての自覚をとことん持たず一家の危機になってようやく“父”となる手裏剣使いのニンジャという、母性と父性、男と女の違いを長編映画初出演とは思えぬ仕事っぷりで見事に表現。演技力どうのこうのと言うよりもこれが当人たちのパブリックイメージなんでしょうが、世界的に見ても
自分の子供を預けるのに最も躊躇するタイプの人種に子育てをさせてみるって狙いがあるって意味では、これは最もハマるキャスティングであるし、当人たちも存分にそれに全力で応えたって感じで。
最後にこの問題にちょっとは触れたほうがいいんでしょうねぇ。“
日本版だけ修正”って問題に。
私自身はほとんど関心がなかったのですが、一部では修正が入ったことに大きな不満の声が上がったとか。たぶんED‐209的なヤツがある人物の胴体をちょん切るシーンがそれだと思うんですけど、確かに胴体を挟んだかなぁと思ったら、よく分からないうちに地べたにモツをはみ出させた下半身が転がってるシーンは不自然。でも、
そんなに騒ぐことかなぁ?敵キャラの潜在的残虐性を表していたのだとしても、ちょっとしたサービスショットでしかなかったとしても作り手が意図していた当初の完全版じゃないものを観させられるのは個人的に不満はありますが、もうそんなこと今更始まったことではないんですよねぇ。ホラー映画が劇場でバンバンやってた頃でさえゴアシーンになるとネガが反転したりごっそりカットされてたり、エロいシーンになると
巨大なマリモがスクリーン上を右往左往する国なんですよ、もともとココは。そもそも、レイティングや上映時間とのせめぎ合いで本国上映版も作り手の目指す完全版じゃないケースが多いですし。あ、「
完成したものがオレのディレクターズ・カット版だ!」と常にシビれるセリフを吐いてるジョン・カーペンターは違いますけど。
まぁ、ビクビクし過ぎて自主規制ばっかしている上に、今回は事前に配給会社が直々に「修正してますよー」と公表しちゃう、
全方位に気を遣い過ぎた過剰な自己防衛姿勢が問題の発端なので「清廉ぶってないでもっとヤンチャになれ!」と配給会社の方々には申したいところで。
やっぱりパパよりママなんだよなぁ
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